大事な話し(カウンセリングの終結)

今日はとてもいい日だった。
ぜひその事を記録に残したい。

1月の終わりから勤めはじめたB型作業所。
仕事とは名ばかり、そんな印象が強い作業所だったが、
いざ勤めはじめてみたら、そこは立派な社会訓練の場だった。

給与も今月末から発生する。

私は「底辺の底辺としての労働力から、どう成り上がるか」
といった、とても現実的な格差のようなものを感じながらも、
ここでは優秀に勤めようと頑張っている。

2月前半の、仕事が終わっても仕事の事を考えて、
ストレスが抜けない時期が終わり、
土日や祝日は、友達との遊びに使えるようになった。
(ちなみに、切り替えが出来るようになったのは"人の話しを聴くこと"が好きだと想い出したからだ)

さて、こんな文章誰が読みたいか、長文になるぞ。

暫く、仕事→帰宅→寝る(たまに詩を書く)のルーチンワークが続いていた。
ここに、仕事前はパフェの散歩に行き、帰ってきたら放送大の勉強をする、というのを加えれば、
私の理想としてる生活が出来上がる。

そこにどう持っていくか、というのを、自分自身でも頑張りましょう、
私達も支援しますよ、といった契約の取り交わしを、昨日終わらせたところだった。

職場の環境はいい。
皆仕事に真面目だ。
今日はそれを強く痛感した。

今日は、
「最後のカウンセリング」
「A型の先輩2名と絵画展に行く」
を、同時に行った日だった。

すでに、一度職場のセンパイとはカラオケにも行った、
その時もA型3名、B型1名(私)という状態で、
B型としては有能な人材だとみなされているという自負心が私にはある。

そういう自信はあってもいいんじゃないかと思う。
A型への昇格も、視野に入れてアピールしていかなきゃ、と、センパイには言われているし、
就労支援計画の中でも、A型の作業に取り組ませてもらえることが、もう話しに上がっている。

さて、
長文しか書けない私は、
それだけの文章が頭の中でダダ流れになっているということだ。

訳は聴かずに私を好きな人はただ読んでくれたらいい。
嫌いな人はどっかいけ、知らん。

今日は最後のカウンセリングだった。
東京ジャーミィ(代々木上原にあるイスラム教のモスク)に、
Yuch師匠と浅沼さん(放送大の友達)と、土曜に行ってきて、
そこで買ってきた封筒付きポストカードに、心理の先生宛の詩を書いた。

前日の昼にあたため、
夜中の3時に飛び起きて書くという、珍しい行動が私に起こった。
(私は一度寝たら泣く子も黙るほど起きないのだ)

そして、その詩を持って、最後のカウンセリングへ行った。
前置きが長くなったのは、
カウンセリングで起こっていることを説明するのが、
とても難しく、とても私にとって重要なことだからだ。

その心理士さんとは7年の付き合いになっていた。
キャバリア(犬種)似の、他の患者さん曰く「やたら可愛い先生(年齢不詳)」である。
うん、可愛いのだ。

だから、私は詩の最後に、いつまでも可愛くいてほしいと書いた。

私にとって冗談と違う話しとして、その心理士さんとの別れはペットロスに似ている。
実際、前診の先生も、先々週「土屋ロス」と言った言葉を私に放っていた。

私は何が言いたいのか、
それは、私が心理士になることを目標にしていて、
そのきっかけの大きなトリガーが、その心理士さんであることだったり、
カウンセリングの終結というものが、どれだけ大きな作用を引き起こすかを、
何とか書いて言い表せないかという試みを頑張っているのだ。許せ。

まず、
心理士というのは、アセスメント(心理査定)を行い、
大まかな患者像の症状の見立てを作り、それを主治医と共有する(精神科勤務であれば)、
そして、主治医と心理士はカルテを共有しながらも、バラバラに治療を進める(当院では)
主治医は、治療と現実問題への介入として薬を使いながら、「健常者」に近づけるように、努力する。
それに対して心理士は、そもそも「治療」よりも「成長」を目標にしている。
病気が治ったかどうかは、患者が決めることであり、心理士が決めることではないという立場だ。
十分に成長しきったとされた場合に、カウンセリング(心理臨床)は終結となる。

今回の場合、心理士さんの他の勤務先での仕事の多忙から来る、急な病院の辞職だった。
私はちっとも戸惑わなかったはずだった。
どの道自分は心理士として、その先生を追いかけて、いや、追い抜いて、
優秀な心理士になれるという自負心も持っていたからだ(本当か?)

心理士さんは「別れ、というものをここで体験するいい機会です」と二週前私に告げていた。
だから私はキレイな別れを演出した、しかし、その演出に嘘はない。

それは、これまでのカウンセリングを自ずから振り返り、手紙を渡して、明るく別れるということだった。

そして、それは成功した。

しかし私の心の中には終始違和感が残る。
7年間のカウンセリングが、詩に少し表現はしたものの、
自分の中に、空洞のまま記憶として残っていないのだ。

決して、嫌な記憶だから排除したとかそういうことではない。
あまりにも受容されすぎる空間。
全てを受け入れられ、全てを聞き入れられる空間。
そこでは時が制止していて、心理士は一貫した私(八朔 恋)というアイデンティティ(自我同一性)を見出していること。
7年前にとっくに問題として見えていたことを、今日最後の日にも心理士さんは告げなかったこと。

私はその一連のカウンセリングというプロセスが不思議この上ないのだ。

心理士さんは基本的に、目を見開き、真剣な面持ちで会話に頷き、たまに言葉を繰り返す。
それしかしていないようにしか、クライエントである私は感じていないからである。

どうして、真剣に話しを聴くだけで、
人が自分の気づいていなかった問題に気づき、それを自分で解決し、その解決を自主的に呈示し、
解決に至るプロセスを把握し、解決した課題を認識し、評価し、残った問題の対処を考え、
明るい展望を身につけ、明かな人格的成長を示す、といったことが起こるのだろうか。

私も心理学を学ぶ身だから、思い当たることはある。
でも、それは教科書の話しでしかなく、クライエントの私にとって、
心理士さんは、ただ話しを聴き、話しを聴く時間を用意していて、
それでお給料をもらっている、私は当然の権利として話しを聴いてもらっているだけ、という意識がある。

これは薄情なのか、薄情と言われども、この感覚は話さずにいられない。
「王様の耳はロバの耳!」だ。

私は今日、自主的に、心理士さんの前で解決した問題を振り返った(本当に自主的に?)

先生はそれを書き留めていた、カルテに記載するためだ。

だが、これが想い出せないのだ。
夢を見たことを、覚えていることがどれくらいあるかというと分かりやすい。
話している時は無我夢中なのだ(しかし、自分は冷静を保っていて、心理士さんをアッと言わせるタイミングを伺っている、と思っている)

何だったろう、

……

本当に想い出せない。

これが困る、本当に困る。

おそらく、カルテに記載があって、読まして下さいと言えば読めるのだろうが、
私は自力で思い出したい。

・心理学を学ぶことで自己洞察を深め、またそれを心理室で照らし合わせることで、治療と学業を両立させた
・現実に一個一個課題を解決するプロセスを、確実に踏めるようになり、直面する無力感や負の感情にも対処出来るようになった
・心理士さんとの対話の中で取り入れた、内的な心理士としての私を、自分の中で育て上げ、かつ実践出来るようになった
・セルフカウンセリングが可能になり、伴奏者である心理士が居なくても、客観的に洞察を加えられるようになった
・極端な危機的な状況を避け、身の安全を守りながら、心理的危機にも自力で取り組めるようになってきた
・より曖昧さを許容出来るようになり、ハッキリしない状況でも目の前のことに取り組めるようになった
・カウンセリング以前にあった過去の人生史上の心理的課題を克服し、自分自身で納得がいく気持ちでそれを語れるようになった
・ジキルとハイド的な、家庭で見せる自分と、外で見せる猫かぶりの自分とのギャップが、大幅に縮まり、より嘘がなくなった
・ありのままの自分を許容出来るようになり、自尊心の高ぶりや傷つきにも、ある程度の妥協や受け入れが出来てきている
・友人関係を育み、その友人関係の中で産まれた内的空間から、安定したコミュニケーションを行う術を身につけた
・死にたいと思うことがなくなり、自分を傷つけたいという気持ちもなくなり、被害者意識も加害者意識もほぼ消失した
・パーソナリティ障害だと私自身が訴える問題についても、概ね決着がついている
・今自分の置かれている社会的地位や、家庭的な状況、今後の未来の重たさといった現実に対して、一致した形で拓かれた覚悟がある
・薬物療法による治療効果を最大限に利用する術を身につけ、作業所に通うことで、生活習慣の改善と労働という現実的な成果を出した

たぶん、私はもっともっと話している。
これは、一切、心理士さんが注釈を加えていない、私が認識している私の成長で、
まぎれもなく私が自分自身で行い、実現した成長だ。

と、私は認識しているし、心理士さんも、それに異論はないはずだ。

しかし、これらの問題の解決に100%はなく、際限がない。
その際限のない私の訴えと、成長課題を、心理士さんは7年のカウンセリングで、
じわりじわりと私に自覚させていっていたのだ。

私の中に内なる心理士という安定したパーソナリティを育てあげていったのだ。
それによって、私はカウンセリングの終結と共に、カウンセリングで話題に上った問題が、ほぼ消失したことを知った。

繰り返すが、心理士さんは、ただ頷き、目を見開き、時に無邪気に笑い、言葉を繰り返し、一言、添えるくらいのことしかしていない。
何にもえばれることはしていない(相違はないはずだ)。

それが、私がこれから身につけていく勉強と関係している、という話しで、
カウンセリングの終結を身を持って体験した心理学を学ぶ大学生とは、とても有難いことである。

しかも、次の心理士さんが待っていて、
土屋先生は「ここまで出来るようになったら、カウンセリングは卒業ですね」
と言っていた内容を、私はこの文章の中である程度出来てしまっている。

ある意味、新しい心理士さんとの関係は、一回目の終結の後の、全く変わった診療の時間になるだろう。

という話しでした。

職場のセンパイと柚月さんの絵画展に行った話しは、また後でします。
東京シンクパレットを今後もよろしく。

今夜もいい夢みれますように。

祈りを込めて。

ぐみぐみ。

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by ren_with_parfait | 2018-03-21 01:59 | 大事なこと | Comments(0)